マドロミ
直近の記事はコチラ。
https://shin50martin.hatenablog.com/entry/2020/04/02/195030
最近は毎日のようにかずまの夢を見る。
過去に実際にあったシーン。
過去にはなかったシーン。
かずまが生きていてどこかに出掛けているシーン。
などなど。
中にはリアルな夢もあって、もしかしたらかずまが生きている別の世界線がどこかに存在していて
夢の中でその世界を旅しているのかもしれないと本気で思えてくる。
マスラヲコミッショナーの「絆飛ぶ」という曲のサビにも
浅い眠りから
覚めたら全てが
あの頃のように
戻れる気がして
という歌詞があるように、朝になって目を覚ます度に、半ば本気でそう思えてくる。
音楽の良いところってのはこういう形容し難い感情をキチンと言葉で教えてくれるところだな。
この夢が「喪失感」の表れで、最初に書き始めた時にはまだ分からなかった感情なのかもしれない。
ちなみに最初の記事はコチラ
https://shin50martin.hatenablog.com/entry/2020/03/26/163129
ただ思うのは、あまりにも地味だ。
かずまが旅立った日から今日まで、一度も泣いていない。
(弔辞の時はグッと来たけど)
別に我慢しているわけでもないし、恥ずかしいから隠しているわけでもない。
もしかしたら自分は人に執着が無くて、これだけ身近な人間が死んでも心動かない冷たい人間なのかもしれない、と考えたりもした。
でもやっぱりかずまのことは思い出す。
1日に何度も思い出す。
その度に寂しい気持ちになる。
多分だけど、自分は単にそういうタイプの人間なのかもしれない。
思い出した時にバーっと泣いて、スッキリして自分の人生頑張ろう!
って気持ちになるならまだ楽かもしれない。
朝起きる度に心が鈍い痛みを伴ってそれが続いていく。
そんな日々を想像するととてもツライ。
喪失感とはこういうことだったのかと今すごく実感している。
自分の言葉。
自分の行動。
自分の意志。
そういうものを大体は言葉に出来るし、整理して説明することが出来る人間だと自分では思ってる。
いわゆる有意識ってやつ。
その分「無意識」に感じたものに関しては全く分からないし上手く付き合うことが出来ない。
理屈をすっ飛ばして能動的に生きている人の方がそういう「無意識」との付き合い方は格段に上手なのかもしれない。
仕事中、車を止めて少しぼんやりすることが1日に1回はある。
今はまさにそんなタイミングで思い立って書き認めてる。
それ以外の時間は忙しくしてる。
心が紛れるし、忙しくしなきゃいけない理由も出来たから。
そんな中でぼんやりするこの時間は、大切だな。
微睡むようにぼんやりとする時間。
仕事しなきゃいけないんだけども。
思い出記事はまた次の更新で。
いつかのライブのブッキングをしてた時。
いつも遠慮して「お任せします」なんて言ってたかずまが珍しくライブに呼びたいって推して来た
「tissue.」
「微睡み」という曲。
勝手に載せます。